しがみつく

お疲れ様です。

 

以前、ある方からの悩み相談で

「好きな人を忘れられない」という相談を受けました。

つきあっていたわけではなく

気持を伝えるLINEメッセージを送ったところ

相手から返事が来ず、

それから1年以上が経つのですが、

いまだにモヤモヤするとのこと。

 

そのことについて占いをうけて、

「やめたほうがいい」とか、

「相手は今でもあなたを思っています」とか、

占い師によって回答はバラバラだそうです。

 

それでも占いを受け続け、

ハマりこんでしまい

今度はそのことに対して

自己嫌悪を感じ始めているそうです。

 

占いが悪いというのではありません。

特に弱っているときなどは、

占いに頼りたくなることはあります。

 

しかし、自己嫌悪を抱くまで

というその状態は問題です。

 

依存が悪いという訳ではありません。

 

我々はまだその力がないとき、初期の段階では、

その力を持つものに頼らざるを得ないこともあります。

 

赤ん坊は食事も排泄も移動も大人に頼らざるをえません。

子供は学校教育を通して読み書き、計算などを教わります。

職場でも新人は先輩や上司から指導を受けます。

 

そして、ある程度力がつくあるいは時が経過したら、

そこから、先に進みます。

 

私たちは

執着する。しがみつく。

ということをしてしまうこともあります。

 

その対象はさまざま。

 

学歴や成績にしがみつく

好きな人にしがみつく

お金にしがみつく

仕事にしがみつく

肩書きにしがみつく

場所にしがみつく

親にしがみつく

子供にしがみつく

世話することにしがみつく

亡くなった人にしがみつく

計画にしがみつく

場所にしがみつく

状況にしがみつく

考え、教えにしがみつく

 

しがみつくことで

葛藤を起こすことも多々あります。

 

「今、何を手放したらよいのか?」

そのときどきで変わりますし、

また、Choice(選択)できます。

 

そして、

「しがみついちゃダメだ!絶対しがみつかないぞ!」

これも

しがみつかないことに

しがみついている状態。

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

 

明日もよい一日を☆

一切唯心造

みなさま

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

 

今年も近くの海岸に初日の出を拝みにいってきました。

 

今回は特に寒かったですが、

やはり氣持ちがよくなります。

 

初日の出を拝むという習慣は日本独特のものだそうです。

それもまた有難く感じます。

 

さて、今日は江戸中期の禅僧、白隠禅師と若い侍のやりとりを紹介します。

 

 

 

あるとき、白隠和尚のところに一人の若い侍が訪れてきました。

 

若侍は白隠に問いかけます。

 

「地獄は有るのでしょうか?無いのでしょうか?」と。

 

白隠は若侍をちらっと見て言います。

 

「あんたは見た目は立派な武士だが、いい年をして、まだ地獄が有るのか無いのかとは、あきれたやつだ!」

 

と罵り、さらに、

 

「不忠の臣、不孝者! 腰抜け侍!」

 

と、さんざん罵倒します。

 

 

初めは有名な高僧の言うことだからと

 

歯をくいしばって耐えていた若侍も我慢しきれなくなり、

 

ついに激情して、いきなり刀を抜いて白隠に斬り掛かります。

 

 

白隠和尚は巧みに逃げまわりますが、

 

しだいに追い詰められて、

 

今まさに斬られそうになったその瞬間、

 

 

「そこが地獄だ!」

 

と、若侍に向かって鋭い叱声を飛ばします。

 

 

その言葉を聞いた若侍はふと正気を取り戻し、

 

「そうか、、、」と合点します。

 

さっきまでの鬼の形相もどこかに消え、

 

思わずそこに平伏して言います。

 

「わかりました。地獄の所在がしかとわかりました。」と。

 

 

すると白隠もにっこり笑って言います。

 

「そこがまた極楽よ!」

 

(参考『白馬蘆花に入る-禅語に学ぶ生き方-/細川景一著』)

 

 

地獄も極楽も心の中 自らの心が作り出したもの。

 

”一切唯心造”

 

すべてのものごとはただ、こころが造り出している。

 

この言葉、本当にわかるのは容易ではないかもしれませんが、

 

2021年を歩んでいくにあたりひとつのキーワードにしていこうと思っています。

 

最後まで読んで下さりありがとうございます。

 

皆様にとってよい一年でありますように☆