それって誰がいった?

それは誰が言ったのか?
同じ言葉でも誰が言ったかによって言葉の影響力は変わります。

例えば会社などの組織では
係長がAのプランにしようと思うと言っていた。
部長がBのプランにすべきだと言っていた。
常務がCのプランのほうがいいんじゃないかと言っていた。

するとCのプランがいちばん良いという認識に流れていくこともよくあること。
主語(誰が)のサイズ感が大きいほど影響力も強くなります。

「威光暗示」という言葉があります。
権限のある人、有名人、世間から信用されている人、地位が高いとされている人
受けとる人によってもさまざまですが、
威光のある人の言葉はまるで真理であるかのように聞こやすくなり、
善くも悪くも影響力も高くなります。

そして、

「最善はDプランだ。」

これも真理であると感じやすくなります。
主語(誰が)が省略された文はあたかも真理であると感じさせる効果があります。

そして、それが自分を制限していることも少なくありません。

かつて、私は
「35歳を過ぎたら転職は無理だ。」
ということをあたかも真理であるかのように思っていました。
この文章は誰が言ったのかが明らかではありません。

NLPを学び始めて、その観念にも質問してみます。

「それって誰が言ったの?」

そう自分に問いかけてみると、

「誰って?誰だろう? 先生? 上司? 友人? 親?」

「え?自分?」

いろんな人が言っているのを聞いたり、読んだりしたことがあったかもしれませんが、
言っている回数でいったら圧倒的に「自分」だったと思います。

「ダメ」「無理」「ねばならない」
他者のことでも、自分のことでも、
なにか制限がかかっていているなと感じたとき、
主語(誰が)を取り戻すことで、可能性が広がるかもしれません。



古畑任三郎が言っていました。

「たとえばですね、明日死ぬとしても、やりなおしちゃいけないって「誰が」決めたんですか?」

明日もよい一日を☆

それは無駄な質問だ!

リオオリンピックが閉幕しましたね。
さまざまな筋書きのないドラマがありました。
今回は日本の選手が予想以上に活躍してくれて
自分でも驚くくらい、選手達を応援する自分がいました。

ただ、ぶっちゃけて言うと、
自然と応援したくなる選手とそこまでという選手とがいました。
メディアも注目する選手に偏りがあったと思いますし、
ネットなどでの国民の反応もさまざま。

「応援される選手の資質はなんだろう?」

ということを考えたりします。
もちろん、華やかさみたいなものもあるのかもしれませんが、
浮かんでくるのは

自分のために戦っている選手と、

自分だけでなく日本というものを背負って戦っている選手

この違いはあるかもなあと。

もちろん、自分のためにが悪いわけではありません。
それは大切なことです。
ですが、後者のほうは私たちとより繋がっている感じがします。

レスリングの吉田選手が金メダルをのがし、

そのときのインタビューで彼女は号泣しながら

「たくさんの方に応援していただいたのに、銀メダルで終わってしまって申し訳ないです」
「日本選手の主将として、金メダル取らないといけないところだったのに、ごめんなさい」
「もうこんなにたくさんの方に遠いところまで来ていただいたので、日の丸の旗や声援が
ものすごく聞こえてきたんですけど、最後自分の力が出し切れなくて申し訳ないです…」

そんなに自分を責めなくてもいいのにとも思いましたが、
彼女のその言葉からもわかるとおり、

支えてくれた人のために、
日本のために、つまり我々のために
日の丸を背負って
戦っていたのだと感じました。

他の世界大会よりもオリンピックはそれを求められる場。

一度だけ、たまたま街中で吉田選手を見かけたことがあります。
おそらく親戚の人たちだと思う方々がいっしょに何人か、
彼女は子供をおんぶしていました。
想像していたよりも体が小さく、その印象は普通すぎて
周囲がみんな気づかないくらい。
あの身体にどれだけの責任を背負っていたのだろうかと。

インタビューでの吉田選手の姿を観ていて
あらためて「ありがとうございます」と頭が下がり、
そして、これからも、もっと応援したいと感じました。

これはスポーツの世界だけではないのでしょう。

人の為と書いて偽と言う文字になります。
どれだけ、人のためといっても、
100%人の為というのは
人間である以上、ないのかもしれませんが
間違いなく、その純度が高い人はいます。
そういう人は自然と応援されるように思います。

応援される人になりたい。

つくづく思いますし、
そのために自分ができることは何なのだろうということを
考える今日このごろです。

明日もよい一日でありますように☆

点をつないでいる

電車の駅のホームでよく聞くフレーズ。

「白線から後ろにさがってお待ちください」

実際は白いプレートが連続して埋め込まれているので、
白線ではありません。しいて言うなら点線です。

人にはある一定間隔で、点を連続して並べられると
それをつなげて見てしまうクセがあります。
これは脳の持つ特性。

私がまだ20代半ばのころ、
システムエンジニアとしてある自治体に常駐し、
そこのシステムの改修作業などを担当していました。

ときどき、システムの仕様などで実際に使用する
各業務担当者の方々と打ち合わせをします。

ある現場の部署の係長さん、40代の方。
打ち合わせのとき、毎回、厳しい意見を言ってきます。
いつも眉間にしわをよせて仕事をしていて、
固いイメージ。

私は「この人、固いし気難しい人。苦手だなあ」と思っていました。

打ち合わせでは、間に情報管理担当の職員さんが入ってくれるんですが、
その人も「あの人、厳しいでなあ」と、

あるとき、誰かの送別会だったかと思うんですが
その係長さんといっしょにお酒を飲む機会がありました。

その場でその情報管理担当の職員さんが、
例の係長さんのことを

「おもしろいであの人、そのうち、タコみたいになるで」

私はよく意味がわからなかったのですが、

★PR
───────────────────────────────

○8月20日(土) 相手や自分の思い込みや制限に気づき、可能性を広げるために
 『NLPブラッシュアップセミナー <メタモデル>』 (※NLPプラク経験者限定)
 ※残席4名

詳しくは記事後半で
───────────────────────────────

いつも眉間にしわをよせて固いイメージのその係長さんが
その場では穏やかな表情で笑顔も多く。

それだけでも、何か「へえ~っ」って感じだったのですが、
その方、だんだん酔っ払ってきて、

高々と手を挙げ、

「ぼく、たけだの、こいちゃん!」(←仮名です)

と、なにやら自分の名を連呼しています。

壊れはじめました。

普段の仕事の場面で、
眉間にしわをよせ、厳しいことを言っているその人しか、
見ていなかった私には想像できなかった姿。

やがて、その方は酔いつぶれて床に寝ました。

情報管理担当の人が
「その人の身体、持ち上げてみ、タコみたいやで」

言われたとおり、持ち上げてみると
「ほ、ほんまや~!!」

まるで間接がないようで、ぐっにゃぐにゃ。

まさにタコのよう。

衝撃でした。

後日、仕事でその人に会うと、
また眉間にしわをよせていました。

けれども、もう、あのタコのイメージが結びついているので
以前のような、固いとか、気難しいとかいう感覚はありませんでした。
そして、自分の心にも柔らかさと余裕が。

駅のホームの白いプレートの連続を白線にする。

その脳の力は必用なことですし、役に立ちます。

けれども、その一方で、

そこに線を作っているのは自分だということ、

どのような線にしているのか、

そして、その点はあくまで点だということも

思い出したほうがいいときもあるのでしょう。

今日も明日も
よいことがたくさんありますように☆