流れ

おつかれさまです。

いつもありがとうございます。

 

先日、ビジョンマップを作成した際に

今年のテーマとして

私がよく使うセルフセラピーカード(タロットのようなカード)を引きました。

自分が引いたのがカードのメッセージは

 

「流れ」でした。

 

本来、このカードの意味は

 

特別に何かしようとしなくてとも、そのまま進んでいったら

いろんなギフトがやってくる

 

というものなのですが、

それをあまり感じ切れていない自分がいました。

 

この場合は、

なにか自分で流れを止めている可能性があるかもしれません。

 

 

私は夏になると

子供をつれて流れるプールにいくことがあります。

 

流れるプールで人が結構たくさんいても

それぞれが、ぶつかることもなく

うまく体を動かせるのは

みんな流れにそって動いているからなんだろうなあと

この仕組み考えた人はすごいなあと思いつつ楽しんでいます。

 

流れるプールのなかにいると

ついつい流れが出てくる口の付近でプールサイドをつかんで

流れに逆って体をビーンとのばしながら

「くそ、流されないぞ!」っと

子供の頃と同じことをしてしまう自分がいます。

楽しいです。

 

ただ、後ろから人が来るとじゃまにもなるし

ずっとしがみついていると手が疲れてくるので

手を放してまた流れにのります。

 

 

カードの話に戻します。

そのあと、

 

「流れ」を受け取るための

 

手立てとして引いたカードは

 

「手放す」でした。

 

流れにのる手立てとしてはピッタリです。

 

川の流れ、時の流れ、血の流れ、空気の流れ、エネルギーの流れなど

 

”流れ”は”自然”なことです。

 

私は「自然は最後に勝つ」

というビリーフを持っています。

 

”流れ”

 

それに逆らっていろいろやるのが楽しいときもありますが、

しんどくなってきたり、何かうまくいっていないと感じたら

 

なにかを手放して

流れにまかせてみると

 

楽で無理のない感覚を得て、ギフトがやってきたり

実はもうすでにやってきているギフトに氣づきやすくなるのかもしれません。

(自分では問題と感じている事柄が実は流れのなかで必要なギフトの場合もあります)

 

自分は今、何かをつかんではなそうとしていないのか

しているとしたら

それが物なのか、人なのか、状況なのか、考え方なのか、イメージなのか、

今はまだはっきりとはわかりませんが、

 

もうちょこっと肩の力を抜いていこうかなあ

と思う今日この頃です。

 

最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

 

明日もよい一日を☆

和氣致祥

いつもありがとうございます。

今年最初のブログになります。

 

昔、心がささくれて、

「どうせ俺なんか」「人生はつまらない」

などと思っていた時期がありました。

そのときは周りの景色もよどんでいていた氣がします。

 

その後、NLPを学んで半年くらいしたころ

仕事から家に帰る途中

いつも見ている何氣ない街頭の光が

めちゃめちゃキラキラ輝いて見えて

ふと「なんか幸せだなあ~」と何年かぶりに感じられたの瞬間を

今でも覚えています。

 

『和氣致祥(わきちしょう・わきしょういたす)』

 

和氣はなごやか、おだやかな氣持ち

祥は幸せなこと、めでたいこと

おだやかな氣が幸せを呼ぶといった意味です。

 

心理の学びも知識を集めることより

自分や相手、周りの「和氣」を生みだすことに

役立ていくことのほうが価値があると私は考えます。

 

『和氣致祥』

 

運を上げるためにも心に留めておきたい言葉です。

 

最後まで読んでくださりありがとうございます。

 

被災地の復興が少しでも早く進むことと
被災された方々の心が少しでもおだやかになることを
お祈り申し上げます。

そして皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

忘年の交わり

 

いつもありがとうございます。

 

今年もあと少しですね。

自分自身に対しても

この一年のがんばりを労ってあげて欲しいと思います。

 

最近は忘年会をするところも減ったようですが、

私は前職時代、会社の忘年会が好きでした。

 

「忘年」とは

一年の苦労を労い、嫌なことも忘れて

新しい年をすがすがしい気持ちで迎える

というような意味だと

私は最近まで思っていました。

 

その意味付けも好きなのですが、

本来の意味は他にあるとのこと。

 

中国の唐の時代、韓愈と孟郊という人物は

格式や年功序列が重んじられた時代でも

年齢の差を超えて交友していました。

 

その姿をみて周りが

「忘年の交わり」「忘年の友」と呼び、

そこから、お互いの身分や家柄、地位や肩書を忘れて交流することを

「忘年の交わり」と呼ぶようになったそうです。

 

今思えば、私が好きだったのは

忘年会のそういう部分だったのかもしれません。

肩書、身分、利害関係など、

それらを少し忘れて交わている感覚があったからのような。

 

普段から仲のよい同僚や先輩、後輩とは

よくのんだりしていました。

 

しかし、それ以外のメンバーが一斉にあつまってのむというのは

そういう時くらいで、それゆえか、

普段は起こりにくい氣づきや発見もあったように思います。

 

たとえば「なんかこの人苦手だな」とそれまで思っていた

目上の人にお酒をつぎにいくと、

相手も酔っぱらってるからか

「おお~なべちゃん~」と普段のその人とは違う感じで

結構フランクに接してくれたりして

それから印象が随分変わったり、お互いの関係性が変わったりして、

自分の視野が広がる感じがしていたのかも。

 

スマホで何か気になることをGoogleやYoutubeなどで

一度検索、閲覧すると、

それ以降、AIが勝手にその人の関心のありそうなものとして

その類の情報ばかりを表示させてきたりしますよね。

 

すると、その類の情報に触れる回数は増えていく一方で

それ以外のことが入ってきにくくなるということがあります。

そして、知識や知恵の偏りや視野狭窄が生じることもあります。

 

私は格式や秩序は好きだし

それは大切だという前提で

「忘年」の交わりは大切だなと感じます。

 

とくに、立場上、上位とされる位置にいる人にとっては

それを忘れて人と接することは

この先も自分を磨いくために役立つことなのだろうと思いました。

 

今年も一年間

おつかれさまでした

お楽しみさまでした

ご活躍さまでした

 

今年もここまで読んで下さり

ありがとうございます。

 

よいお年を☆