忘年の交わり

 

いつもありがとうございます。

 

今年もあと少しですね。

自分自身に対しても

この一年のがんばりを労ってあげて欲しいと思います。

 

最近は忘年会をするところも減ったようですが、

私は前職時代、会社の忘年会が好きでした。

 

「忘年」とは

一年の苦労を労い、嫌なことも忘れて

新しい年をすがすがしい気持ちで迎える

というような意味だと

私は最近まで思っていました。

 

その意味付けも好きなのですが、

本来の意味は他にあるとのこと。

 

中国の唐の時代、韓愈と孟郊という人物は

格式や年功序列が重んじられた時代でも

年齢の差を超えて交友していました。

 

その姿をみて周りが

「忘年の交わり」「忘年の友」と呼び、

そこから、お互いの身分や家柄、地位や肩書を忘れて交流することを

「忘年の交わり」と呼ぶようになったそうです。

 

今思えば、私が好きだったのは

忘年会のそういう部分だったのかもしれません。

肩書、身分、利害関係など、

それらを少し忘れて交わている感覚があったからのような。

 

普段から仲のよい同僚や先輩、後輩とは

よくのんだりしていました。

 

しかし、それ以外のメンバーが一斉にあつまってのむというのは

そういう時くらいで、それゆえか、

普段は起こりにくい氣づきや発見もあったように思います。

 

たとえば「なんかこの人苦手だな」とそれまで思っていた

目上の人にお酒をつぎにいくと、

相手も酔っぱらってるからか

「おお~なべちゃん~」と普段のその人とは違う感じで

結構フランクに接してくれたりして

それから印象が随分変わったり、お互いの関係性が変わったりして、

自分の視野が広がる感じがしていたのかも。

 

スマホで何か気になることをGoogleやYoutubeなどで

一度検索、閲覧すると、

それ以降、AIが勝手にその人の関心のありそうなものとして

その類の情報ばかりを表示させてきたりしますよね。

 

すると、その類の情報に触れる回数は増えていく一方で

それ以外のことが入ってきにくくなるということがあります。

そして、知識や知恵の偏りや視野狭窄が生じることもあります。

 

私は格式や秩序は好きだし

それは大切だという前提で

「忘年」の交わりは大切だなと感じます。

 

とくに、立場上、上位とされる位置にいる人にとっては

それを忘れて人と接することは

この先も自分を磨いくために役立つことなのだろうと思いました。

 

今年も一年間

おつかれさまでした

お楽しみさまでした

ご活躍さまでした

 

今年もここまで読んで下さり

ありがとうございます。

 

よいお年を☆

自分が喜ぶ

 

お疲れさまです。

いつもありがとうございます。

 

先日、私とNLPを通して関わりのある方から

結婚するとの報告を受けました。

すごく嬉しかったです。

 

釣りバカ日誌という映画がありますが

主人公のハマちゃんは妻のみち子さんにプロポーズの際、

こう言います。

 

「僕はキミを幸せにする自信はありませんが

僕が幸せになる自信はあります。結婚してください!」

 

この言葉、人によって受取り方が違うかもしれません。

なかには

「妻の幸せはどうでもよいってこと?」

「オレを幸せにしてくれよ~ってこと?」

という解釈をしてしまう人もいるかもしれません。

 

捉え方は人それぞれですが、

これをちょっと違う方向から見てみます。

 

例えばハマちゃんが人生最後をむかえることになったとします。

上の言葉どおりにハマちゃんが夫婦の生活を送れたなら

ハマちゃんみち子さんに

おそらくこう言うことになるのだろうなと想像します。

 

「あなたがいてくれたおかげで私は幸せでした」

 

 

先の

 

「僕が幸せになる自信があります」は

 

言い換えると

 

「あなたは私にとって喜びの存在です」

 

にもなるのではないでしょうか。

 

 

また、心理学やNLP的な観点から大切な点として

 

ハマちゃんが言っているのは

 

「僕を幸せにしてくれ」ではなく

 

「僕が幸せになる」です。

 

受け身ではなく、

自分が幸せになるということを言っています。

 

”自分の機嫌をとる”ということを

ここでも時々書かせてもらっていますが

 

他人の機嫌をとろうとすると

かえってこっちまで機嫌悪くなってくることがあります。

 

ステイト(心身の状態)は伝染します。

 

自分で自分の機嫌をとることができて

機嫌よくいられると

近くにいる人にもそのステイトが伝染していきます。

 

率先して自分が喜びを感じる

自分を喜ばせる

これは自分の為でもあり

相手の為、周りの為でもあります。

 

最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

 

明日もよい一日を☆

メッキが剥がれていく

いつもありがとうございます。

 

10年くらい前にリリースされた曲、

サザンの「栄光の男」を初めて聴いたとき、

その歌詞のなかで

 

「信じたものはみな~ メッキが剥がれてく~」

 

という部分が、すごく入ってきました。

 

 

心のことを学び始めたころから、

自分のなかでそれまで”権威”と思っていたものたちが

少しづつ崩れていきました。

 

令和になり、コロナ騒動が始まったころから、

それが一氣に加速した感があります。

 

というか、

自分の中だけでなく

世の中的にも、そのように私には感じます。

 

専門家、有名人、歴史上の偉人、大きな組織や団体、大手メディア、なんとか賞、など

 

”社会的な権威”

 

どんどんメッキが剥がれてきているようで。

 

剥がれるのを目の当たりして、

以前は「まんまと騙されていたなあ」と

ショックをうけたり

信じていた自分を「恥ずかしいなあ」と

感じることもありましたが、

 

今は、それらも

「氣づけてよかった!」と

感じれる自分がいます。

まだまだ見えていないものもあるのでしょうけどね。

 

X(旧Twitter)や、Youtubeを見ていると、

ある医師などの専門家に対して、

思ったことを意見している人がいたりします。

 

それに対して

「素人が専門家に口出しするんじゃねえ」

と叩いている人たちがいました。

 

私は

「ん?素人が”なんかおかしい”と感じたらダメなのか?」

「それを発言したららダメなのか?」

「それだと思考停止状態になるのでは。」

 

と思うのと、

 

自分もある種の専門的な仕事をしていますが、

その道について

自分より知っている素人さんがいることも知っているし、

自分が

「その道のことなら何でも知っている」みたいなのは

危ないと改めて考えます。

 

もちろん、社会的な権威を持った人のなかには

「やっぱり、すごいなあ」「ああ本物だなあ」と、

思える人もたくさんいます。

 

一方で、

そのような”社会的な権威”を

今は持ってない人のなかから

「なんかこの人、すげえぞ」と、

感じることもずいぶん増えたりして

それを嬉しく感じます。

 

「信じたものはみな~メッキが剥がれてく~♪」

 

桑田さんの意図ではないかもしれませんが、

 

わたしにとっては

 

外側のものだけで判断しない

ことだったり、

 

盲信には注意する

ということを

思い出させるアンカー(トリガー)にもなっていているようですす。

 

 

最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

 

明日もよい一日を☆